人類史  2000.3.20 更新 
飛躍とマンネリをくりかえしてきた人類史    出典 ニュートン 馬場悠男

霊長類としての7000万年間、そして人類としての500万年間、私たちの祖先が歩いてきた道のりは、マンネリと飛躍のくりかえしであった。
私たちの遠い祖先は、恐竜が絶滅した時期にアフリカで樹上生活を求めて大飛躍をした。
およそ3000万年前には類人猿の仲間がアフリカ、アジア、ヨーロッパで発展したが、私たちの祖先はその一員として、アフリカの森の中でぬくぬくと暮らしていた。

以下は「馬場悠男」さんの記事に基づいてまとめたものです。
( )は他の記事よりの修正です
地質年代

年    代

現代人類につながる進化の系統

備考及び分岐した系統の説明 
第三紀 鮮新世 500万年前 人類と類人猿が共通の祖先から別れた
(これ以前に
水生のサルの時代?)
440万年前 アルディピテクス・ラミダス
(アウストラロピテクス・ラミダス)
アウストラロピテクス=猿人
ラミダス猿人
・2足歩行
400万年前 アウストラロピテクス・アナメンシス 直立2足歩行を開拓・森から草原に進出した(猿人
200万年間、体も頭もほとんど進化せず、石器の作り方もいい加減だった
390〜300万年前 アウストラロピテクス・アファレンシス
300〜200万年前 アウストラロピテクス・アフリカヌス(280〜250万年前)
ガルヒ猿人(250万年前)
第四紀 更新世 250〜160万年前 ホモ・ハビルス 私たちの直接の祖先、ホモ属人類の台頭。石器もまともに作れるようになった
170〜120万年前 ホモ・エルガスター アフリカを脱出してユーラシアへと広がった。まさに大飛躍であった。
ホモ・エルガスターの適応戦略を踏襲してアジアで繁栄したのがホモ・エレクトスジャワ原人、北京原人など)である。その後、ホモ・エレクトスは本質的に飛躍することなく、ダーリー人やマパ人のような古代型ホモ・サピエンスに移行して、10万年ほど前に絶滅した
50〜20万年前 ホモ・ハイデルベルゲンシス ヨーロッパに行った集団はネアンデルタール人になった。しかし、彼らは氷河期のヨーロッパという特殊な環境に適応しすぎて、3万年前に絶滅した
30万年前
(20〜3)
古代型ホモ・サピエンス 旧人 アフリカに残ったホモ・ハイデルベルゲンシスの中から生れた
15万年前
(10〜1.1)
現代型ホモ・サピエンス 新人
(ホモ・サピエンス・サピエンス)
さらに現代型ホモ・サピエンスに進化した。
現代型新人はアフリカから再び旅だって世界中に拡散し、各地の旧式適応型の集団を駆逐していった

(上記の年代設定は他の研究者では異なっていることもある。第三紀鮮新世から第四紀更新世にかけての地質時代区分の年代は暫定的なもの。研究者によって250万年〜175万年ぐらいの幅がある)

現生人類の旅の始まりは、地質時代で言うと第三紀鮮新世の後半頃(約200(250)万年前)で、そのふるさとはアフリカの大地溝地帯のようです。
現世人類(新人)の起源


新聞記事
 
ガルヒ猿人1999.4.23日経新聞「250万年前 新種の猿人・エチオピアで化石発見」
 
これまでに発見されている猿人の化石とは異なる新種と分り「アウストラロピテクス・ガルヒ」と名づけられた。
 人類は、500万年以上前に類人猿の祖先とわかれて進化してきたと考えられている。枝分かれ後の初期の段階を「猿人」と呼び、アフリカなどで複数種の猿人がみつかっている。
 ただ、320万年前の猿人「アウストラロピテクス・アファレンシス」と200万年〜230万年前の人類の祖先「ホモ・ハビルス」との間が謎とされてきた。
 従来は、南アフリカで発見された猿人「
アウストラロピテクス・アフリカヌス」が系図の空白を埋める有力候補とされてきたが、ガルヒ猿人の発見は、この定説を覆すものになる可能性がある。

 1999.1.23東京新聞 「現生人類はアフリカ起源」で決着
 現生人類(新人)の起源はアフリカ起源説と、世界各地の原人がそれぞれ新人に進化したとする多地域進化説が対立していた。
 現生人類は10万〜15万年前にアフリカに出現、その後世界各地に広がったことを示す大規模なDNA分析結果を、米ペンシルベニア州立大のサラ・ティシュコフ博士等が23日、米科学振興協会年次総会で発表した。
 この結果、
百数十万年前にいたジャワ原人や約六十万年前の北京原人はアジア人の祖先ではなく、何らかの原因で絶滅したことがほぼ確定的となった。
 博士等はアフリカ18地域と欧州、アジアなどアフリカ以外の45地域の合計約1700人のDNAを調べた。
 アフリカの人々は、DNAに多くの種類の特徴があった。一方、欧州人やアジア人などは、特徴の種類が少なく、アフリカ人が持つ種類の一部に限られていた。この結果は、新人がアフリカで出現した後、現在のエチオピア付近にいた新人が欧州やアジアに広がったことをはっきり示しているという。
 DNAに多くの特徴が出来るのにかかる時間の計算から、新人の出現は十万年〜十五万年前と分った。

 1999.10.26日経新聞「現代人とネアンデルタール人 数千年間は共存」発見の骨測定で判明
 クロアチアの洞くつから見つかったネアンデルタール人の骨を年代測定した結果、骨は今から約二万八千年前のものとわかったと、米ノーザンイリノイ大のフレッド・スミス博士らが26日付けの米科学アカデミー紀要に発表した。
 従来、ネアンデルタール人は約三万四千年前に絶滅したと考えられていた。クロアチア付近には約三万二千年前に現代人が広がっていたことが分っており、今回の測定結果は、
現代人とネアンデルタール人が数千年間も共存していたことを示している。
 
同博士らは、長い共存期間から、一部では混血も起きていたとみている。
 博士らが調べたのは、クロアチアの首都ザグレブの約54`北にある洞くつで、70年代に発掘されたネアンデルタール人の骨。
 ネアンデルタール人は現代人の亜種に分類され、中期旧石器文化を生み出した。

 1999.4.20日経新聞「旧人+新人=現代人?」
 米ワシントン大の考古学者が19日、このほどポルトガルで発見された二万四千五百年前の人骨は旧人のネアンデルタール人とクロマニヨン人など新人の両方の特徴をそなえ、両者が混血することで現人類が生れたとする説を明らかにした。
 ネアンデルタール人はアフリカから到来した新人に淘汰されたとする、これまでの定説を覆すと主張している。この人骨は四歳の男児で、リスボン北方約130`のレイリアで発見した。


水生のサル 「アースワークス」ライアル・ワトソン著より

 人類にいたる進化の系統樹を飾る化石は、発見されているものが極めて少ない。研究者の数が、対象とすべき標本の数を大きく上回っているという、奇妙な事態が現在も続いているのだ。
 化石と化石のあいだの空白はかなり大きいうえに、その解釈にも相当な開きがある。主流をなす専門家たちの意見は食い違い、新しい発見がある度にそれによって一時的な恩恵をこうむる陣営も変わる。
 現在、正統とされているその結論というのは、こうだ。今から2000万年前、第三紀中新世と呼ばれる気候条件の温和な時代に、体毛のある、まだ原始的で種々の特徴が混じった類人猿の集団が繁栄していた。その内のごく少数には大きな臼歯が発達し、これは食物の変化と身体の大きな人類へ移行しつつあったことを物語っていた。
 1900万年前から600万年前のあいだの、より乾燥した第三紀鮮新世のある時点で、これらの類人猿の一種ないし複数の種は、減少しつつあった森林地帯を捨て、温暖で開放的なサバンナ地帯へ移り、徐々に二足歩行の傾向を強めていった。そしてついに、現生人類のように身体を直立させて行動するが、古い類人猿的な頭と脳をとどめた、どっちともつかない生き物ができあがったのである。

 人類進化学の両泰斗(
リチャード・リーキードナルド・ジョハンソン)のあいだで食い違うのは、中新世の類人猿から現生人類へ移行する、その時期だけである。ふたりとも、その変化が鮮新世に起こったことと、それが東アフリカの乾燥した高原地帯の厳しいい生活様式によってもたらされたことに関しては、見解を一にしている。
 アフリカの鮮新世の化石層の中には、関係を裏付けるのに必要な証拠の骨はまだ見つかっていない。400万年前から1000年前の時期には、ただ、暗いブラックボックスが大きく口を広げているばかりだ。
 はっきりとした化石による記録がなく、わが現生人類のー直立し、体毛がなく、言語をもち、大きな脳が発達した人類のー本当の起源も、類人猿のそれに劣らず謎だらけなのだ。

現生人類と、現存する大型の類人猿とが、共通の祖先をもっていることに異論をとなえるものはいない。共通する特徴が相当あるので、我々が比較的最近になってから枝分かれいたことは明白である。人類は、異までもその遺伝物質の98%近くがチンパンジーと共通であるといわれる。理解に苦しむのは、むしろその相違点の方なのだ。
 ヒトをヒトたらしめている2%の遺伝物質の中に、我々の姿勢が、歩き方が、知能が、かくも彼等のものとかけ離れてしまった事実を説明する何かが含まれている。人類は、この1000万年のほとんどを、いくつもの進化上の適応階段を、いわば駆け抜けるように通過してきた。その間、類人猿たちには大きな変化がほとんど起こっていない。

 現在までに解明されたさまざまな事実と辻褄の合うシナリオは、ひとつしかないと私は思う。われわれが現在のようになったのは、ただ単にわれわれの祖先がある時期に多くの間を水の中で過ごしたから、というものだ。森を捨てたのち、サバンナの大平原に直接おもむかず、その前に何百万年か水の中で遊び暮らしていたサル、つまり
水生のサルだったというものである。
 これは以前に、ほかの動物にも起ったことだ。それもかなり頻繁に。
 1000万年あまり前に水に入って泳ぎ始めたサルが何百万年も水生生活を続けたとしたら、体に大きな変化をこうむる可能性は少なくないだろう。
 世界に現存する体毛のない哺乳類はすべて水生であるか、ほとんどの時間を水と泥の中でころげまわりながら過ごしているかのどちらかだ。

 ここ20年の研究で、人間の新生児は不思議にも、ほとんど生れた直後からうまく泳げることが判明している。顔の肌が水に濡れると、すぐさま発動するきわめて興味深い反射がひとつある。顔が水につくと心拍が自動的に減り、体の酸素消費率が低下するのである。通常の心拍数が一分当たり70なのが30にまで落ち込むという「潜水反射」は、人類とクジラやアザラシに共通して見られるもので、ほかの陸上動物にはまったくない。

水に入ったことのもうひとつの影響が、われわれの性行動にも表れている。水生動物はおおむね、腹と腹をつき合わせて交尾し、それ以外の方法をとることはかえって難しい。
 霊長類の中でこうしているのはわれわれだけで、他の類人猿はこれをしない。となると、この方面におけるわれわれ特異性はーーほかの霊長類にはなくて水生動物にはあるこの特異性はーー長期にわたって人間も水に潜った段階を経ている可能性と何らかの関係があると言えないだろうか。
 哺乳動物の中でも人類だけが恒常的に後ろ脚で歩く。まったくの二足動物だという意味で、しかもそのことを「どうしてか」などと考えてしまうという意味で、ヒトは他にまったく類がないのである。
 四足より二足の方が早く動けるわけでも、エネルギー効率がいいわけでもない。
 何百万年ものあいだ、多くの時間を垂直の姿勢で過ごしてきた水生のサルにとっては、陸上の生活に戻ろうとしたとき、おそらく二足で立つ姿勢の方がとりやしかったろうし、その方が自然だったろう。
 
以上が「水生サル」説の概要である。

 わたしは人生の形成期のほとんどを、今世紀が生んだ偉大な学者のひとりで、1925年に最初のアフリカ猿人を発見した解剖学者、レイモンド・ダートの下で学ぶ幸運に恵まれた。このダートには、特異な感性とも言うべき科学的な「第二の目」のようなものが備わっていた。いっしょに発掘品の検討をしながら、骨の意味は骨の背景を考えて読み取れと、わたしに教えてくれたのは彼だった。また、科学的な手続きを厳しく訓練する一方で、直観の大切さを強調したのも彼だった。「正しいと心で感じなければ駄目だ」とよく諭されたものだ。
 水生のサル説には、どこかその感がある。生物学者の立場から見れば、他の動物についてわれわれが知っている事実とじつによく整合するので、きわめて魅力的な仮説であることは確かだ。わたしには正しいという感じがしてならないのだ。
 地質学的な手掛かりなら多少はある。鮮新世のころに、海の水位が急激に変化したことは古い海成段丘に見られるとうりで、ある時期、海が陸地にまで溢れてきて、現在の東アフリカの海岸平野の大部分が水面下に没した。そのため、この辺りのいたるところに階段状にせりあがった隆起海岸が形成され、なかには現在の水位より200mもたかいところに位置するものまでできた。こうした海水の氾濫は鮮新世のほとんど全期間にわたって繰り返されたが、およそ五百万年前、もっと温暖な、乾燥した気候が到来してようやくおさまった。水生のサルたちを残して海岸線は引き、「
ルーシー」に良く似た仲間たちが水浸しの平野を越えて、グレート・リフト・バレーに逃げ場を求めていったことだろう。
 
以上がライアル・ワトソンの水生のサル説の抜書きです。大変示唆に富む内容であるので、掲載しました。


 社長室へ